二○○八年の「ミスさっぽろ・雪の女王」を決める審査会(さっぽろ雪まつり実行委主催)が二十七日、札幌市中央区のロイトン札幌で開かれ、百二十六人の応募者の中から新しい札幌の顔を務める三人が選ばれた。
厚別区の会社員宮原里奈さん(21)、白石区の北大大学院二年中寺さくらさん(23)、北区の北大二年佐藤由佳さん(21)。来月三日から大通公園で行われる国際雪像コンクール(同実行委主催)開会式で、雪の女王としてデビューし、四月からミスさっぽろを引き継ぐ。
「丁寧で親切な案内を」(宮原さん)、「札幌の良さを伝えたい」(佐藤さん)などと抱負を語る中、中寺さんは「札幌の街を元気にするお手伝いをしたい」と話しつつ、「実は黙って来たので、急いで両親に報告しないと」と明かし、会場を沸かせた。
2008年1月29日火曜日
2008年1月25日金曜日
温かさにじむ教育論 元小樽工ボート部顧問の故坂下さん 遺稿集を出版
元小樽工業高ボート部顧問で昨年亡くなった坂下五郎さん=札幌市=の遺稿集が刊行された。長年にわたる人材育成の経験をまとめた「実践から生まれた新人教育小論集」。遺族が自費出版の形で世に出した。ボート関係者は「ボートマンらしい厳しさと温かさがにじむ」と話している。
坂下さんは一九六○年代半ばに小樽千秋高(現小樽工業高)に赴任。北大在学中のボート経験を生かして顧問不在だったボート部を率い、七○年代には全国大会上位入賞の常連に導いた。全国高体連漕艇部強化委員長も務めた。
退職後も札幌の日用品卸「ダイカ」で研修室長を務めるなど、人材育成一筋。経験を書き残そうとしていた昨年秋、がんを再発した。急きょ、ダイカ広報誌の連載をまとめたが、十一月、刊行を待たずに七十四歳で死去。前書きが絶筆となった。
遺稿集は、上司を嘆かせる新人の行動に潜む“価値観のギャップ”を解説。「日本の伝統的勤労観を失った若者が、他人のためにという気持ちを持ったときが第一歩」と、見守り方や働きかけ方を指南している。
「利他的思考の強さを説く言葉に、五人一体で力を発揮するボート競技の経験がにじむ」と、小樽漕艇協会の柳内敦会長(63)。「市民レガッタにも尽力、小樽ボート界の精神的支柱だった。遺志を継いで普及活動を続けたい」と話している。
五百部発行。小樽市稲穂一の丸文書店イナホ店で発売中。二千円。
坂下さんは一九六○年代半ばに小樽千秋高(現小樽工業高)に赴任。北大在学中のボート経験を生かして顧問不在だったボート部を率い、七○年代には全国大会上位入賞の常連に導いた。全国高体連漕艇部強化委員長も務めた。
退職後も札幌の日用品卸「ダイカ」で研修室長を務めるなど、人材育成一筋。経験を書き残そうとしていた昨年秋、がんを再発した。急きょ、ダイカ広報誌の連載をまとめたが、十一月、刊行を待たずに七十四歳で死去。前書きが絶筆となった。
遺稿集は、上司を嘆かせる新人の行動に潜む“価値観のギャップ”を解説。「日本の伝統的勤労観を失った若者が、他人のためにという気持ちを持ったときが第一歩」と、見守り方や働きかけ方を指南している。
「利他的思考の強さを説く言葉に、五人一体で力を発揮するボート競技の経験がにじむ」と、小樽漕艇協会の柳内敦会長(63)。「市民レガッタにも尽力、小樽ボート界の精神的支柱だった。遺志を継いで普及活動を続けたい」と話している。
五百部発行。小樽市稲穂一の丸文書店イナホ店で発売中。二千円。
温かさにじむ教育論 元小樽工ボート部顧問の故坂下さん 遺稿集を出版
元小樽工業高ボート部顧問で昨年亡くなった坂下五郎さん=札幌市=の遺稿集が刊行された。長年にわたる人材育成の経験をまとめた「実践から生まれた新人教育小論集」。遺族が自費出版の形で世に出した。ボート関係者は「ボートマンらしい厳しさと温かさがにじむ」と話している。
坂下さんは一九六○年代半ばに小樽千秋高(現小樽工業高)に赴任。北大在学中のボート経験を生かして顧問不在だったボート部を率い、七○年代には全国大会上位入賞の常連に導いた。全国高体連漕艇部強化委員長も務めた。
退職後も札幌の日用品卸「ダイカ」で研修室長を務めるなど、人材育成一筋。経験を書き残そうとしていた昨年秋、がんを再発した。急きょ、ダイカ広報誌の連載をまとめたが、十一月、刊行を待たずに七十四歳で死去。前書きが絶筆となった。
遺稿集は、上司を嘆かせる新人の行動に潜む“価値観のギャップ”を解説。「日本の伝統的勤労観を失った若者が、他人のためにという気持ちを持ったときが第一歩」と、見守り方や働きかけ方を指南している。
「利他的思考の強さを説く言葉に、五人一体で力を発揮するボート競技の経験がにじむ」と、小樽漕艇協会の柳内敦会長(63)。「市民レガッタにも尽力、小樽ボート界の精神的支柱だった。遺志を継いで普及活動を続けたい」と話している。
五百部発行。小樽市稲穂一の丸文書店イナホ店で発売中。二千円。
坂下さんは一九六○年代半ばに小樽千秋高(現小樽工業高)に赴任。北大在学中のボート経験を生かして顧問不在だったボート部を率い、七○年代には全国大会上位入賞の常連に導いた。全国高体連漕艇部強化委員長も務めた。
退職後も札幌の日用品卸「ダイカ」で研修室長を務めるなど、人材育成一筋。経験を書き残そうとしていた昨年秋、がんを再発した。急きょ、ダイカ広報誌の連載をまとめたが、十一月、刊行を待たずに七十四歳で死去。前書きが絶筆となった。
遺稿集は、上司を嘆かせる新人の行動に潜む“価値観のギャップ”を解説。「日本の伝統的勤労観を失った若者が、他人のためにという気持ちを持ったときが第一歩」と、見守り方や働きかけ方を指南している。
「利他的思考の強さを説く言葉に、五人一体で力を発揮するボート競技の経験がにじむ」と、小樽漕艇協会の柳内敦会長(63)。「市民レガッタにも尽力、小樽ボート界の精神的支柱だった。遺志を継いで普及活動を続けたい」と話している。
五百部発行。小樽市稲穂一の丸文書店イナホ店で発売中。二千円。
2008年1月18日金曜日
ポンプの下敷き68歳の男性死亡 札幌・白石区
十七日午前八時半ごろ、札幌市白石区東米里二一九五、土木工事業立川開発の敷地内で、同市清田区美しが丘三の六、アルバイト従業員山岸重行さん(68)が、クレーンで運搬中の油圧ポンプ(重さ約三トン、高さ二・二メートル、幅二メートル)が落下して下敷きになり、全身を強く打って間もなく死亡した。
札幌白石署によると、山岸さんは、クレーンをリモコンで操作しながら油圧ポンプをトラックの荷台に積み込む作業中で、つり上げたポンプの近くにいたところ、ワイヤ四本が突然切れ、下敷きになったという。事故当時、山岸さんは男性作業員と二人で作業していた。同署は作業手順に問題がなかったか調べている。
札幌白石署によると、山岸さんは、クレーンをリモコンで操作しながら油圧ポンプをトラックの荷台に積み込む作業中で、つり上げたポンプの近くにいたところ、ワイヤ四本が突然切れ、下敷きになったという。事故当時、山岸さんは男性作業員と二人で作業していた。同署は作業手順に問題がなかったか調べている。
2008年1月13日日曜日
フィギュア 長谷川(帯広第一)初V IH決勝は釧路北-苫小牧和光 全道中学大会
【芽室】全道中学スケート・アイスホッケー第5日は12日、アイスホッケーは十勝管内芽室町の帯広の森アイスアリーナで2回戦と準決勝の計6試合を行い、準決勝の釧路勢対決は釧路北が釧路青陵に7-4で快勝し、3年ぶりの決勝進出を決めた。苫小牧和光は延長戦の末に苫小牧凌雲・安平早来に6-5で競り勝ち、2年連続の決勝進出を決めた。
フィギュアは最終日を迎え、女子Aクラスはフリーを行い、ショートプログラム(SP)2位の長谷川円(帯広第一)が逆転で初優勝した。SPトップの及川久莉子(札幌北辰)は2位だった。
フィギュアは最終日を迎え、女子Aクラスはフリーを行い、ショートプログラム(SP)2位の長谷川円(帯広第一)が逆転で初優勝した。SPトップの及川久莉子(札幌北辰)は2位だった。
2008年1月9日水曜日
石狩管内の教諭を着服で懲戒免職
道教委は八日、教材費を着服した石狩管内の小学校の男性教諭(39)を懲戒免職にするなど、教員八人の懲戒処分を発表した。
石狩管内の教諭は二○○七年七月から十一月にかけて四回、教材費を管理していた口座から計約二十二万円を引き出し、消費者金融の返済に充てていた。着服した金は全額弁済されたため、刑事告訴はしていない。合わせて、管理監督責任を問い、校長(60)を戒告とした。
また、人身事故を起こした札幌の高校の男性教諭(34)と、上川管内の中学校の男性教諭(35)を、ともに減給10%二カ月とした。
ほかに、速度違反で留萌管内の小学校の男性教諭(49)を停職一カ月、上川管内の中学校の男性校長(55)ら三人を減給10%一カ月とした
石狩管内の教諭は二○○七年七月から十一月にかけて四回、教材費を管理していた口座から計約二十二万円を引き出し、消費者金融の返済に充てていた。着服した金は全額弁済されたため、刑事告訴はしていない。合わせて、管理監督責任を問い、校長(60)を戒告とした。
また、人身事故を起こした札幌の高校の男性教諭(34)と、上川管内の中学校の男性教諭(35)を、ともに減給10%二カ月とした。
ほかに、速度違反で留萌管内の小学校の男性教諭(49)を停職一カ月、上川管内の中学校の男性校長(55)ら三人を減給10%一カ月とした
2008年1月5日土曜日
釧路市を訪問して100年 啄木イベント続々 まず19日から記念展
【釧路】歌人・石川啄木が一九○八年(明治四十一年)、釧路で七十六日間を過ごし離道してから今年で百年の節目を迎える。これを記念し、啄木が釧路に足を踏み入れた一月二十一日前後に、釧路市内で啄木来釧百年記念展などが開催される。昨年から函館、小樽など道内各地で開催されてきた一連の啄木来道百年記念行事の締めくくりとして、あらためて天才歌人・啄木に光が当てられる。
一九○七年五月-翌年四月の啄木の「北海道漂泊」は函館、札幌、小樽を経て釧路が最終段階となる。
釧路には、一九○八年一月二十一日-四月五日滞在。旧釧路新聞社(北海道新聞社の前身の一つ)の記者、編集者として活躍した。釧路の地で文学者として生きる覚悟を決めたあと東京へ旅立ち、才能を開花させた。
釧路市教委などでつくる実行委は、啄木の業績をあらためて評価しようと、「啄木来釧百年記念展」を今月十九日から二月三日に同市生涯学習センターで開催する。石川啄木記念館(盛岡市)から借りた啄木の手紙をはじめ、市立釧路図書館に保存されている啄木の記事を掲載した旧釧路新聞の紙面など、計百点を展示する。
また、啄木ゆかりの市内南大通一帯をアイスキャンドルで彩る「啄木・雪あかりの町・くしろ」も今月二十一日夜に開かれるなど、多様なイベントが計画されている。
来釧百年の節目を機に、地元・釧路市では一過性のイベントにとどまらず、市内にある啄木歌碑二十六基や啄木の立ち寄り場所を生かし、啄木を観光の目玉に-との期待感も高まっている。
一九○七年五月-翌年四月の啄木の「北海道漂泊」は函館、札幌、小樽を経て釧路が最終段階となる。
釧路には、一九○八年一月二十一日-四月五日滞在。旧釧路新聞社(北海道新聞社の前身の一つ)の記者、編集者として活躍した。釧路の地で文学者として生きる覚悟を決めたあと東京へ旅立ち、才能を開花させた。
釧路市教委などでつくる実行委は、啄木の業績をあらためて評価しようと、「啄木来釧百年記念展」を今月十九日から二月三日に同市生涯学習センターで開催する。石川啄木記念館(盛岡市)から借りた啄木の手紙をはじめ、市立釧路図書館に保存されている啄木の記事を掲載した旧釧路新聞の紙面など、計百点を展示する。
また、啄木ゆかりの市内南大通一帯をアイスキャンドルで彩る「啄木・雪あかりの町・くしろ」も今月二十一日夜に開かれるなど、多様なイベントが計画されている。
来釧百年の節目を機に、地元・釧路市では一過性のイベントにとどまらず、市内にある啄木歌碑二十六基や啄木の立ち寄り場所を生かし、啄木を観光の目玉に-との期待感も高まっている。
2008年1月1日火曜日
半世紀の夢、南極に 札幌・阿部さん現地で観測活動
「人間あきらめたら絶対だめだ」。第四十九次観測隊員の写真家兼ビデオジャーナリストの阿部幹雄さん(54)=札幌市=は、今回最年長の五十四歳で南極に立った。一九八一年の中国・ミニヤコンカ(七、五五六メートル)登山隊での遭難事故など苦難を乗り越え、子供時代の夢であった南極で活動を始め、三十一日に北海道新聞に元気な声で喜びを伝えた。(東京社会部 岩本茂之)
阿部さんは十一月下旬南極に到着。昭和基地西方にあるセール・ロンダーネ山地の地質調査隊七人の危機管理者兼記録係として活動する。過去に人や雪上車の転落事故が起きた、クレバスが多い地帯。ブリザードが起きると風速三〇メートル、零下三○度の猛吹雪になり、今回は雪上車という避難手段がないテント生活。「犬ぞりがスノーモービルに変わったぐらいで、第一次観測隊に匹敵する過酷さと言われています」
愛媛県松山市出身。子供のころ、松山城がある高台から雪の中国山地を見た。五七年、日本初の南極観測隊の現地からのニュースに胸を躍らせ「ヒマラヤや南極の極地体験をしたい」と思い、北大に進み、迷わず山スキー部に入った。
八一年、ミニヤコンカ登山隊に加わったが、頂上を目前に仲間八人が滑落し、自身もクレバスに胸まで落ちた。背中のザックが引っ掛かり「足は中ぶらりん。落ちると二千数百メートル。自分では絶対脱出できず死の恐怖を味わった」。駆け付けた仲間の命懸けの救出で奇跡的に生還した。
今回観測隊に応募した際「年だし南極はもうだめだと思っていた。でも人間あきらめたら絶対いけない」と南極行きを信じ続けた。
夢の南極で大みそかを迎え、そして新しい年。「人生観が変わった」としみじみ語った。「岩と氷だけの裸の地球を見て、自分は宇宙で生きていると感じた。自分が知らない世界がある。夢を持ち続けて探求したい」
隊の調査目的は五億-六億年前の石を採取し、南半球の大陸が一つだった時代の歴史を解明すること。「研究者が強風と寒さの中、はいつくばって石を見て四十キロものサンプルを担ぎ山から下りる。夢のない時代、億年単位で地球と対話する人の姿を撮り、感動を与えたい」。二月中旬に帰国、映像公開する予定だ。
阿部さんは十一月下旬南極に到着。昭和基地西方にあるセール・ロンダーネ山地の地質調査隊七人の危機管理者兼記録係として活動する。過去に人や雪上車の転落事故が起きた、クレバスが多い地帯。ブリザードが起きると風速三〇メートル、零下三○度の猛吹雪になり、今回は雪上車という避難手段がないテント生活。「犬ぞりがスノーモービルに変わったぐらいで、第一次観測隊に匹敵する過酷さと言われています」
愛媛県松山市出身。子供のころ、松山城がある高台から雪の中国山地を見た。五七年、日本初の南極観測隊の現地からのニュースに胸を躍らせ「ヒマラヤや南極の極地体験をしたい」と思い、北大に進み、迷わず山スキー部に入った。
八一年、ミニヤコンカ登山隊に加わったが、頂上を目前に仲間八人が滑落し、自身もクレバスに胸まで落ちた。背中のザックが引っ掛かり「足は中ぶらりん。落ちると二千数百メートル。自分では絶対脱出できず死の恐怖を味わった」。駆け付けた仲間の命懸けの救出で奇跡的に生還した。
今回観測隊に応募した際「年だし南極はもうだめだと思っていた。でも人間あきらめたら絶対いけない」と南極行きを信じ続けた。
夢の南極で大みそかを迎え、そして新しい年。「人生観が変わった」としみじみ語った。「岩と氷だけの裸の地球を見て、自分は宇宙で生きていると感じた。自分が知らない世界がある。夢を持ち続けて探求したい」
隊の調査目的は五億-六億年前の石を採取し、南半球の大陸が一つだった時代の歴史を解明すること。「研究者が強風と寒さの中、はいつくばって石を見て四十キロものサンプルを担ぎ山から下りる。夢のない時代、億年単位で地球と対話する人の姿を撮り、感動を与えたい」。二月中旬に帰国、映像公開する予定だ。
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